
先日、兄がうつ病になりました。
時を近くして、ヨガ教室の師匠から贈られた言葉が非常に胸に染み込んできて、非常に腑に落ちました。
兄のストレスの原因について細かく聞くようなことは、心の傷をむし返すことになるのではないかと避けていますので、この言葉が兄に当てはまるのかどうかはわかりませんが、その兄に向けて私から贈りたいと思います。
自分を愛することにエネルギーを使う
師匠から贈られた言葉を要約すると以下のようになります。
幸せになるための前提条件は、ありのままの自分 でいること。
本来の自分は、そのままの自分でも十分に完璧で、変える必要がない。
でも、我々は理想の人物像に近づこうとして無理をするあまり、自分を見失ってしまうことになる。
つまり、自分じゃない誰かになろうとすると自分がわからなくなる。
自分が憧れの人に近づこうとしても、完璧にその人にはなれない。
なぜならその人と自分は違う人間だから。
唯一、完璧な存在になれるとすれば、それは 自分自身 。
憧れの人になろうとして努力するエネルギーがあるなら、そのエネルギーで自分を愛してあげてほしい。
自分を愛せなければ、自分という存在が崩れてしまうし、そんな人は他人を愛することはできない。
だから、自分以外の誰かになるのはやめて、いつも 素直な自分 で生きてほしい。
これは私にも大いに当てはまるところがあります。

自分の自信のなさを「他者への憧れ」で隠していないか
自分も昔から、素の自分を隠して誰かを演じてきました。理由はその時はわからなかったのですが、今ならわかります。
おそらく、傷つきたくない からです。
もし自分を否定するような言葉を投げつけられても、それは 演じている誰か を否定されたわけであり、素の自分を否定されたことにならないから。
そうすれば「自分は悪くなかった、悪いのは演じている人物像であり、本来の自分自身ではない」と言い訳できるから。
でもね、そうすると本当の自分ってどんなんだったっけ?ってわからなくなるんですよ。
自己紹介するときでも、結局は演じている人物像を紹介しているだけですから、本来の自分はどんな性格で、どんなものが苦手で、将来どんなふうにしたいのかが全然本気で語れないんです。
唯一無二の自分の存在を否定して、借り物の他者の人生を生きているわけです。
そんな人間に心を許してくれる友人なんてできませんよね。
自分自身を見失わないうちに、自分自身を極めてみよう
本来の自分の姿で物事を語るとき、もちろん傷つくこともあります。
自分の心の中から出てきた言葉を否定されたとき、当然心はダメージを受けます。
でも、自分の言葉に共感してくれる人が出てきたとき、その喜びはとても大きく、その人はとても大切な存在となります。
それが私の妻であるように。
一度きりの自分の人生なのに、借りものの他人の人生を生きるなんて、それこそもったいないことですし、あとでやり直しなんてききません。
一度きりの人生なら、本来の自分と借りものの自分、どちらの人生を生きるべきかは明らかです。
行動する時は自分の心に従って。
発言する時は自分の心に素直になって。

素の自分を愛するトレーニングを始めませんか
演じている自分なら心が傷ついても痛くない なんて、結局は傷ついた他人の気持ちがわからなくなるための練習をしているようなものです。
素の自分の心が傷ついても、他人の心の痛みがわかるようになるんだと思えば乗り越えられるし、本来の自分であれば、必ず親身になってくれる味方がそばにいるはずです。
自分を見失わずに、本来の自分を極めることにエネルギーを使う。
言葉にすればそれだけなんだけど、それに気づくまでに私は何十年もかかりました。
自分の幸せは他人にはつくれません。なぜなら、同じものを見てもそれを美しいと感じるか感じないかは その人の脳がどう感じるのか によるのであって、見ているものが変化するからではありませんから。
幸せはその人の脳が創り出すものだからです。
だったら、借りものの自分の脳を鍛えても意味がありません。それでは偽りの自分が満たされるだけで、本来の自分は満たされないから。

ここらでちょっと一休みしてから、本来の自分を愛するトレーニングを始めて見ませんか?
いきなり完璧にさらけ出すことは難しいですが、ちょっとずつ自分の気持ちに素直になってみませんか?
完全に本来の自分を見失ってしまわないうちに。
あなたならできるでしょう?
本来のあなたを知っている私が、兄弟たちが、両親が、あなたの妻や愛しい息子が、常に一番近くで最高の味方でいるのだから。